能のお約束ごと

「能」の台本は詩

能のお約束ごと

まず能の舞台には幕(どん帳)がありません。
そのまま空間が時として宮殿になり、海にも、荒れ果てた野山にもなります。

次に作り物、いわゆる舞台装置のようなものですが、能の舞台の場合は竹と白い布で作ります。(我々の世界ではこれを「ぼうじ」と読んでいます。)これは上演の度に作り、終わればまた壊すのが原則です。一期一会の精神ですね。
しかしおそらく昔あちこち旅の一座で回っていたときに、竹と白い布という持ち運びに便利で、いつでもどこでも調達できるということがあったのでしょう。

この竹の作り物がある時は宮殿に、ある時は妖怪の住む塚に、牛車に、舟にとなります。
ですから「隅田川」で作り物がでてきたら、ははーんこれはお墓なんだと思うことで辺りはものさびしい岸辺、悲壮な感じが漂ってきますし、「舟弁慶」で舟のつくりものがでてくると、ここは西海の荒れ狂う海の上、囃子のリズムと狂言の「波よ波よ」という文句を聞いているだけで、砕け散る白い波飛沫まで見えてきます。

「邯鄲」(カンタン)に至っては全く同じ作り物が、前半は薬屋、後半では宮殿、そしてまた薬屋と変身しています。

見えないはずの波が見え、そこにはいないはずの人々のざわめきが聞こえてくる。
これって能のマジックだと思いませんか?


「能」の装束

登場人物の装束(衣装)を見ただけで、いろいろなことがわかります。

例えば、同じ女性の姿でも赤色のは入った唐織姿(紅入り)であれば、若い女性、青や茶系統の唐織姿(紅無し)であれば中年の女性。腰巻き壺おり姿で笠をかぶっているか持っていれば、ただいま旅行中ということ。
尚かつ、手に笠をもって登場ということになれば、これは狂女(物思いに狂うということ)ということです。

又、同じ烏帽子でも、左に折れていれば源氏、右に折れていれば平氏の武士を表します。
「烏帽子折」という能のなかにも、牛若丸が元服の際、左折りの烏帽子を所望する場面がでてきます。

「能」の鑑賞

「能」の鑑賞

「このように能には見る人の能力に負う部分がずいぶん大きいのです。
シンプルだからこそ、その後ろにあるものが想像出来、世界がどんどん拡がっていきます。

能楽堂へいくと、大体の方が謡本を手にしておられます。謡本いわば台本です。
見ている側、お客様が、皆台本をもって見る劇なんてなかなかありませんよね。
シーンとしている中で、みなさんがページをめくる音まで聞こえてきそうなほどです。

我々もなんかチェックされているみたいで、間違えたりすると、見ている人全員にわかるなんてちょっとつらいところです。

謡本を見ておられるのはいいですが、どうかすると舞台を見るより、謡本に見入っている方の方が多く、お客様の頭がみなしたをむいて、何かちょっと見所があったりすると、一斉に頭が上がったりなんてシーンもよくあります。

せっかくお金を払って見ていただいているのですから、これはもったいない話です。
謡本ばかり見ていたのでは、能のマジックも出番がありません。



風姿花伝に「そもそも芸能とは諸人の心を和らげて、上下の感をなさん事、寿福増長の基、仮齢延年の方なるべし」という言葉があります。

我が家でも、以前ミュージカル劇を観に行きました。
半ば無理矢理連れていかれたのですが、観ているうちに自分の心が、如何に狭くぎゅっとタイトな状態になっているか気がついたのです。
堅くなっていた心が、ほろほろと解けていく気がしました。

絵でももちろん、見る人と通い合うものはあるのですが、演劇は見る人がいないと成立しません。
通い合うものがあって初めて成り立つのです。

能?「oh!NO!」などと言わずに、能楽堂へ足を運んで、あなたも見えないはずの波を見てください。

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